
新野に薫る不朽の禅印
💠【心宗行順行者・長野県 】
【名称】心宗行順行者
(しんしゅう ぎょうじゅん ぎょうじゃ)
地元では親しみを込めて「新野(にいの)の行人様」と呼ばれています。
【場所】瑞光院(ずいこういん)
長野県下伊那郡阿南町新野
【修行】
もとは武家に仕えていた人物と伝えられている。
26歳の頃、山へ薪を取りに出ていた留守中に家が火事となり、妻と子を失ったことから、世の無常を感じて仏門に入ったという伝承が残されている。
新野村の瑞光院で南岸是頓和尚の弟子となり、「行順」と名乗ったとされ、
その後、諸国を巡り、木食の修行を行いながら、17年間にわたって厳しい修行を続けたと伝えられている。
【入定の様子】
心宗行順行者の入定については、複数の伝承がありますが、貞享4年(1687年)に土中入定したという記録が伝えられている。
瑞光院の奥山に石を詰めた穴を掘り、その中に箱を設けて、行順はその箱に入ったとされいる。
箱には空気を通すための穴を設け、地上から竹筒を通した。
行順は、
「鉦の音の聞こえるうちは生きていると思いたまえ」
と周囲の人々に伝え、鉦を鳴らしながら読経を続けたと伝えられている。
やがて鉦の音が聞こえなくなると、竹筒を取り外し、穴を閉じたとされている。
こうして行順は土中で入定し、後に「行人様」として地域の人々から篤く信仰されるようになった。
【その後】
心宗行順行者の尊像は、現在も瑞光院に伝えられている。
その姿は地域の人々によって大切に守られ、現在まで信仰が受け継がれている。
また、行人様を外部の展示や調査から守ろうとした地域の人々の強い思いも、後世の記録に残されている。
※心宗行順行者については、生年や出家に至る経緯、修行の内容などに伝承・資料による違いがあります。
流転の果てに帰還せし
美濃の守護者
💠【妙心法師・岐阜県】
【名称】妙心法師(みょうしんほうし)
俗名は古野小市良(古野小一郎とも伝えられる)
現在は「横蔵寺の即身仏」として広く知られている。
【場所】両界山 横蔵寺
(りょうかいざん おうぞうじ)
岐阜県揖斐郡揖斐川町
【修行】
天明元年(1781年)、横蔵寺の近くに生まれたと伝えられる。
幼少の頃から諸国を巡って修行を重ね、信濃善光寺で出家した後、富士山周辺で修行する富士行者となったとされる。
その後、山梨県の御正体山に草庵を結び、厳しい修行を続けた。
食を厳しく制限する修行を行い、「食日一行妙心」とも称されたと伝えられている。
【入定の様子】
1817年(文化14年)、山梨県都留郡鹿留村の御正体山で、断食修行の後に入定したと伝えられている。
その遺体は自然にミイラ化したとされ、後に「舎利仏」として祀られることとなった。
【その後】
入定した御正体山で祀られていた妙心法師の遺体は、明治初期に山梨県側へ移された。
その後、さまざまな経緯をたどり、故郷である横蔵の人々による帰還運動が起こった。
そして1890年(明治23年)、妙心法師の遺体は故郷の横蔵寺へ移され、現在も舎利堂に安置されている。
※妙心法師の生年・俗名・入定年・入定の経緯などについては、資料によって異なる記述があります。本稿では、横蔵寺および関連資料で確認できる内容を中心に紹介しています。
写真:岐阜県郡上市 清流・吉田川

名利を蹴散らす孤高の狂聖
💠【増賀・奈良県】
【名称】増賀(ぞうが)
平安時代中期の天台宗の僧。比叡山で良源(慈恵大師)に師事したが、名利を激しく嫌い、独自の精神性を貫いた人物である。
【場所】多武峰(とうのみね)
奈良県桜井市
【経歴と修行】
比叡山でのエリートコースを約束されていたが、名声を求める仏教界の腐敗を嫌い、あえて奇行(牛の角を被って踊るなど)を繰り返すことで世俗の評価を拒絶した。
その後、多武峰に隠遁し、ひたすら法華経の読誦と極楽往生を願う修行に専念した。
【入定の様子】
1003年(長保5年)、増賀は多武峰で生涯を終えたとされている。
その最期については、後世の説話の中に、増賀が自らの死後について遺言を残したという話が伝えられている。
【その後】
臨終に際し、「私を火葬せず、土葬にせよ。そして後に墓を掘り起こしてみよ」という趣旨の言葉を残したと伝えられている。
弟子たちが後に墓を掘り起こしたところ、衣服は朽ちていたものの、遺体は腐敗せず残っていたという。
こうした「遺体が腐敗しなかった」という不朽の身体の伝承は、後世の即身仏信仰を思わせるものでもある。
ただし、これはあくまで『今昔物語集』などに伝えられた説話であり、現在、増賀の遺体そのものが保存されているわけではない。
妙観察智を掌に結ぶ密教の月
💠【維範・和歌山県】
【名称】維範(いはん)
【場所】和歌山県 伊都郡 高野山
【修行】
維範は高野山を拠点に修行した僧で、『元亨釈書』には「高野山維範」としてその事績が記されている。
真言の教えを修める一方、極楽往生を願う念仏の行にも励んだと伝えられている。
【入寂の様子】
嘉保3年(1096年)2月、死期を悟った維範は、西を向いて端座し、阿弥陀如来を念じながら静かに最期を迎えたと伝えられている。
その際、阿弥陀如来に結縁するように、仏像と自らを五色の糸で結んだとされる。
また、手には印を結び、阿弥陀如来の名号を唱えながら入寂したと伝えられている。
※「印(いん)」とは、仏教で用いられる手の形のことで、仏や菩薩の智慧や悟り、修行の状態などを象徴するものです。
【その後】
『元亨釈書』によれば、維範は火葬せず、自らの遺体を廟室に納めるよう遺言したとされている。
そして、入寂後もその容貌は変わらず、手に結んだ印も崩れなかったと伝えられている。
さらに五七日(35日)後に門弟たちが廟室を開けたところ、そこでも容貌や印相に変化が見られなかったという不思議な伝承が残されている。
その後、門弟たちは廟室を閉じ、再び開けることはなかったと伝えられている。
この「遺体が変わらなかった」という伝承は、後世の即身仏や不朽の身体をめぐる信仰を考えるうえでも興味深い。
五十余年を越えて伝わる
高野の不朽伝承
💠【琳賢(琳雅)・和歌山県 】
【名称】琳賢(りんげん)
※平安時代後期の真言宗の僧。
高野山で修行し、のちに高野山検校を務めた人物として知られている。
【場所】高野山
和歌山県 伊都郡
【経歴と修行】
1074年に生まれ、華厳を学んだ後、高野山で良禅から灌頂を受けたと伝えられている。
保延5年(1139年)には高野山検校となり、堂塔の建立や経典の書写・保存にも尽力したとされている。
久安6年(1150年)8月14日に77歳で亡くなったと伝えられている。
【入寂と廟窟の伝承】
琳賢の死後、その身は高野山に廟窟を設けて祀られたと伝えられている。
そして、入寂から約50余年が過ぎた建永年間(1206~1207年)、後鳥羽上皇が高野山を訪れた際、この廟窟を開いたところ、琳賢の左眼が落ちて舎利となったという不思議な伝承が残されている。
【その後】
この「左眼が舎利となった」という伝承は、琳賢が亡くなってから半世紀以上を経ても、その身体が特別なものとして信仰されていたことを示す。
平安時代から鎌倉時代へと移り変わる中で、高野山では僧侶の遺体や舎利を聖なるものとして捉える信仰が育まれていたことをうかがわせる。
※琳賢の最期や廟窟に関する内容には、後世に伝えられた伝承が含まれています。特に「左眼が舎利となった」という話は、歴史的事実として確認されたものではなく、琳賢にまつわる伝承として紹介しています。
写真:和歌山県東牟婁郡(ひがしむろぐん) 那智の滝

清らかな死の証明
―修行としての即身仏、
伝承としての不朽体―
ここまでは、自らに厳しい修行を課し入定という道を選んだ方々をご紹介しました。
しかし、
自ら身体を残そうとしたわけではないのに、死後、その身が朽ちなかったと伝えられる人々もいます。
それが『不朽体』です。
証如、高階良臣、大江挙周、藤原忠季、明実など、記録にその名を残す人々もいます。
彼らの場合、即身仏のように自ら身体を残すための修行を行ったのではありません。
「死んだあとも身体が腐らなかった」
「顔色が生前と変わらなかった」
「良い香りがした」
「死後も身体が崩れなかった」
そのような現象が、当時の人々によって『徳の高さ』や『聖性』の表れとして受け止められ、信仰の対象となりました。
今回ご紹介した方々のほかにも、記録に残らぬまま静かに眠りについた行者がいらっしゃるはずです。
私の生まれた地元でも土中入定された逸話が残っていますが、本やネットに情報はありませんでした。
皆様の身近な地域にも、そうした祈りの歴史がひっそりと受け継がれているかもしれません。