
新潟県
湯殿山系即身仏の
礎を築いた先駆者
💠淳海上人
【名称】淳海上人
(じゅんかいしょうにん)
【場所】玉泉寺(ぎょくせんじ)
新潟県東蒲原郡阿賀町津川
【修行】
慶長年間(1596~1615年)の生まれとされ、湯殿山で修行を積んだ僧。いわゆる「湯殿山系即身仏」の系譜において、先駆的な存在として知られる。
【入定の様子】
寛永13年(1636年)、自ら決めた最期の時を迎え、玉泉寺の裏山(観音山)の石棺に入り念仏を唱えながら入寂した。
地下の石棺の中、空気穴の竹筒だけを頼りに、息絶えるまで鐘を鳴らし続けたと伝えられている。
【その後】
明治13年(1880年)の津川大火によって、寺とともに尊体も焼失したと伝えられている。
その際、辛うじて残った遺骨が現在も玉泉寺に大切に守られているとされている。
淳海上人は、現在のような湯殿山系即身仏信仰が広がっていく以前の時代に、衆生救済を願って自ら入定した僧として伝えられている。
悲劇を越え阿賀野川の難所を
切り拓いた慈悲の僧
💠【全海法師】
【名称】全海法師(ぜんかいほうし)
【場所】菱潟全海堂
(りょうがたぜんかいどう)
松井山観音寺境内
新潟県東蒲原郡阿賀町豊実
【修行】
慶長7年(1602年)生まれ、もとは農民で、阿賀野川の筏乗りとして働いていたとされている。
寛永6年(1629年)、両親や妻子を相次いで亡くしたことをきっかけに、世の無常を感じて出家を決意したと伝えられている。
その後、湯殿山大日坊で修行を積む。
帰郷後は阿賀野川の難所の開削に尽力し、地域の人々を救ったとされている。
【入定の様子】
貞享4年(1687年)、85歳で入寂したと伝えられている。
全海法師は、自らの遺体を土中に埋めるのではなく、その姿のまま祀るよう遺言したとされている。
そして、座禅を組んだ姿のまま入寂したと伝えられる。
多くの即身仏が土中入定という形をとっているのに対し、全海法師は、座禅した姿のまま祀られている点が特徴とされている。
【その後】
全海法師は、現在も座禅した姿をとどめる法師として、地域の人々から大切に祀られている。
師とされる淳海上人の尊体が津川大火によって失われたと伝えられているのに対し、全海法師の尊像は現在まで伝えられている。
自ら石室を築き
救済を誓った不屈の住職
💠【秀快上人】
【名称】秀快上人
(しゅうかいしょうにん)
【場所】真珠院(しんじゅいん)
新潟県柏崎市西長鳥
【修行】
秀快上人は真珠院第22世住職で、50歳の頃に入定を決意し、その後10年間にわたって五穀を断つ修行を続けたと伝えられている。
安永年間に、自ら入定するための石造りの入定所(石室)を建立したとされている。
【入定の様子】
安永9年(1780年)3月21日、62歳で石室の中に入り、結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で定印を結びながら入寂した。
石室の中で念仏を唱え続け、その声が途絶えたときに入定が成ったとされている。
【その後】
開帳などによって遺体が傷み、平成2年(1990年)に調査された際には、すでに白骨化していたとされている。
学問にも通じた僧として知られ、入定のための石室を自ら建立したと伝えられることから、即身仏の中でも特徴的な人物である。
日本最後、明治の禁令を越えて
願いを貫いた執念の行者
💠【仏海上人】
【名称】仏海上人(ぶっかいしょうにん)
【場所】観音寺(かんのんじ)
新潟県村上市肴町(さかなまち)
【修行】
文政11年(1828年)、越後国村上に生まれた。
16歳または18歳の頃に湯殿山注連寺に入り、その後、本明寺でも修行を重ねている。
さらに木食行に入り、五穀を断つなどの厳しい修行を続けている。
身体を腐敗しにくくするために漆を飲んだという伝承も残されているが、これは諸説の一つとして伝えられている。
【入定の様子】
明治36年(1903年)3月20日、76歳で入定。
生前から即身仏となることを志し、入定のための墓穴を準備していたと伝えられている。
しかし、土中入定を行おうとした際、警察官に止められたため、寺の中で息を引き取った後、その遺体を入定墓へ移したとされている。
【その後】
遺言では、3年後に入定墓から掘り出すようにと伝えられていた。
しかし、明治初期に出された墳墓発掘禁止令のため発掘することができず、昭和36年(1961年)になってようやく発掘調査が行われた。
この調査は村上市教育委員会と日本ミイラ研究グループによって行われ、木棺とともに、ほぼ完全な状態のミイラが発掘されている。
現在、仏海上人は観音寺に即身仏として安置されている。
明治36年に入寂した最後期の即身仏として知られ、長年にわたる厳しい修行と強い信仰心を今に伝える存在となっている。
※仏海上人の修行や入定の経緯には、寺伝や地域に伝わる伝承が含まれています。
写真(先頭)︰新潟県長岡花火「タビダー」より

山形県
39歳からの出家
現存最古の湯殿山系即身仏
💠【本明海上人】
【名称】本明海上人
(ほんみょうかいしょうにん)
【場所】不動山本明寺
山形県鶴岡市(旧朝日村)
【経歴と修行】
元和9(1623)年に庄内藩主 酒井忠勝の家臣 斉藤徳左エ門の息子として生まれる。
家臣として仕えていた頃、藩主が大病を患ってしまい、湯殿山仙人沢に籠って祈祷すると、霊感が宿り、藩主の病が治ったという。
それを機に寛文元年(1661年)に出家し、仙人沢で数千日に及ぶ山籠修行と木食行を行ったと伝えられる。
【入定の様子】
天和3年(1683年)、61歳で入定。入定に際しては「信心深い者の願いを叶えよう」との言葉を遺した。土中に埋められた石櫃(いしびつ)の中で、読経を続けながら断食し、永遠の瞑想に入る「土中入定」を果たしたと伝えられる。
【その後】
入定から3年後の1686年に発掘された際、遺体は腐敗せず、即身仏として現在まで伝えられている。
現在も、衆生救済の願いを体現する存在として篤い信仰を集めている。
海を見つめ、民を救った
海向寺の忠海上人
💠【忠海上人】
【名称】忠海上人
(ちゅうかいしょうにん)
【場所】海向寺(かいこうじ)
山形県酒田市の沙高山
(さこうざん)
全国で唯一、2体の即身仏を一堂に祀る寺院として知られている。
【経歴と修行】
元禄10(1697)年、山形県鶴岡市鳥居町の庄内藩の武家 富樫条右衛門家で生まれる。
中興初代住職として、延享3年(1746年)に海向寺の中興を成し遂げた。
【入定の様子】
50歳頃から、人々の救済を願い、即身仏への道を志したと伝えられる。
宝暦5年(1755年)、入定した。衆生救済の願いを込め、読経を続けながら地下の石室で最期を迎える。
【その後】
入定後の発掘時、乾燥が十分でなかったため、ヨモギなどを用いて燻す処置が施されたと伝えられている。
その後、同じく即身仏となった円明海上人とともに、海向寺にて人々の信仰を集め続けている。
師の遺志を受け継ごうとした
随一の忠義
💠【円明海上人 】
【名称】円明海上人
(えんみょうかいしょうにん)
【場所】海向寺
忠海上人とともに安置されている
【経歴と修行】
明和4(1767)年、山形県東田川郡栄村家根合の佐藤六兵衛家に生まれる。
【入定の様子】
50歳の頃、即身仏になることを決意する。
湯殿山仙人沢に籠り、五穀断ち・十穀断ちの難行苦行に耐え、文政5(1822)年5月8日、55歳で土中入定したと伝えられている。
【その後】
円明海上人の御尊体には、柿渋が塗られているとされる。
柿渋には防腐・防虫作用があるため、御尊体の保存を目的とした処置と考えられている。
現在も忠海上人とともに、海向寺の堂内に鎮座し、参拝者の信仰の対象となっている。
96歳の長寿を捧げ
救済を願って入定した聖者
💠【真如海上人】
【名称】真如海上人
(しんにょかいしょうにん)
【場所】瀧水寺山大日坊
山形県鶴岡市大網
かつて大日坊には、3尊の即身仏が安置されていたと伝えられている。
しかし、明治8年(1875年)の火災によって、そのうち2尊が焼失した。焼失した2尊については、「本明海上人の弟子たち」であったとする説など、いくつかの伝承が残されている
現在は真如海上人の一尊のみが現存している。
【修行】
山形県朝日村越中山で農家の長男として生まれた。
20歳頃から即身仏を志し、70年以上にわたって厳しい修行を続けた。
【入定の様子】
天明3年(1783年)、96歳で入定。
地下に造られた石室に入り、鉦(かね)を鳴らしながら読経を続け、土中入定したと伝えられている。
【その後】
入定した天明3年は、東北地方が未曾有の
「天明の大飢饉」に見舞われた年であった。
上人は自らを犠牲にして人々を飢えから救おうと祈願し、入定を果たしたとされる。その高潔な精神は今も語り継がれ、多くの参拝者が訪れる信仰の象徴となっている。
片目を捧げても
人々を救おうとした行者
💠【鉄門海上人 】
【名称】鉄門海上人
(てつもんかいしょうにん)
【場所】湯殿山注連寺(ちゅうれんじ)
山形県鶴岡市大網
【経歴と修行】
もとは砂利掘りなどに従事する労働者であった。遊女を巡る争いから武士を殺害してしまい、注連寺へ逃げ込んだことを機に21歳で出家したと伝えられる。
その後、厳しい修行に身を投じ、湯殿山を中心に修行を重ねた。
僧名を得た後は、難所として知られた加茂坂などの山道の開削にも携わり、公共事業を成功させた。
宗教的な修行だけではなく、人々の暮らしを支える社会基盤の整備にも力を尽くした行者である。
【入定の様子】
文政12年(1829年)、71歳で即身仏となったと伝えられている。
【その後】
鉄門海上人の生涯には、現在まで語り継がれる数多くの伝説が残されている。
江戸で眼病が流行した際には、人々の病を救うため、自らの左眼を抉り出して隅田川に投じ、病魔退散を祈願したと伝えられている。
その強烈な逸話は、上人が人々の苦しみを自らの身をもって引き受けようとした行者であったことを象徴する伝説でもある。
鉄門海上人の布教は庄内地方を中心に、北海道から関東にまで及んだとされる。
多くの人々から信仰を集め、「行者の神様」として尊敬され、各地に上人を顕彰する石碑が建立されている。
自らの身を修行に捧げ、最後まで人々の救済を願い続けた行者である。
百年の眠りから覚めた
沈黙の行人
💠【光明海上人】
山形県西置賜郡白鷹町
大日坊系の修行者であったとされる。
出土品から、上人号を持たない行人だった可能性が指摘されている。
嘉永7年(1854年)に入定。他の即身仏と同様に、地下の石室などで断食修行の末、土中入定を行ったとされる。
黒鴨地区に「即身仏になるため、100年後に掘り出してほしい」と言い残して入定したという、伝承が残されている。
しかし、実際に発掘されたのは入定から124年後の昭和53年(1978年)であった。
しかし、発掘時の御尊体は、一部白骨化した状態であった。
その後、即身仏研究で知られる小片保(おがた たもつ)博士らによって調査が行われ、残された骨格が即身仏としての姿に整えられた。
現在に伝わる光明海上人は、こうした発掘と研究、保存の過程を経て今日まで伝えられている存在である。
盲目の苦難を乗り越え、
置賜の地に光を灯した上人
💠【明海上人】
【名称】明海上人
(みょうかいしょうにん)
【場所】亀齢山明壽院
山形県米沢市簗沢
明寿院は明海の子孫宅にあり、国内で唯一の個人蔵の即身仏である。
【経歴と修行】
もとは貧しい農家の長男として出生。
若くして両眼を失明、家族の死、飢饉を経験、それを機に修行の道へ入った。
天保15年、「明海」と号し、弘化4年、京都仁和寺より上人号を賜わった。
【入定の様子】
文久3年(1863年)、44歳で入定したとされる。湯殿山系の即身仏の中では比較的若くして、人々の救済を願いながらその生涯を閉じた。
【その後】
失明という逆境を乗り越え、行人から僧都という高い地位まで登り詰めたその足跡は、当時の庶民の深い信仰を集めた。
病に倒れるも夢枕に立ちて
念願を成した不屈の魂
💠【鉄竜海上人】
【名称】鉄竜海上人
(てつりゅうかいしょうにん)
【場所】南岳寺(なんがくじ)
山形県鶴岡市
【経歴と修行】
秋田県出身。16歳の時に鶴岡へ来て南岳寺に入門したという。
1862年から湯殿山仙人沢で一千日の木食行をした。岩手の連正寺の再建、加茂坂の改修などにも尽力する。
【入定の様子】
即身仏を志したが、病を得たため修行を続けることができず、一度はその道を断念したと伝えられている。
1881年(明治14年)入滅。ただし、1878年(明治11年)説もある。
一旦 埋葬される。
【奇跡とその後】
死後、関係者の夢枕に立ち「早く掘り出してほしい」と告げたという伝説が残る。
死後に弟子たちによって遺体が掘り起こされ、保存のための処置が施されたという。
明治政府による「墳墓発掘禁止令」などの時代背景の中で、人々の手によって守り抜かれた即身仏である。
死してなお一国を護る
「武神」の化身
💠【上杉謙信】
【名称】上杉謙信(不識院殿真光謙信)
【場所】上杉家廟所内の謙信廟(霊屋)
山形県米沢市
【経歴と修行】
越後の戦国大名。晩年は、高野山で阿闍梨権大僧都の位を授かり、正式に灌頂を受けた。
武将でありながら仏教者としての側面も持っていた。
毘沙門天を深く信仰し、極めて禁欲的かつ宗教的な生活を送った。
※灌頂(かんじょう)とは
仏の知恵や力を頭に授ける密教の重要な儀式。正式に弟子として認められ、仏の教えを受け継ぐ資格を得ることを意味する。
【入定の様子】
天正6年(1578年)3月13日、49歳で春日山城にて死去。
その遺骸は、甲冑を着せたまま甕(かめ)に納められ、周囲を漆で固めて密閉されたと伝えられている。一般的な僧侶の入定とは異なり、武将としての姿を保ったまま安置された、極めて特異な例である。
【その後】
春日山城から米沢城へ移された謙信の遺骸は、城内の御堂に安置され、生前と同じように食膳を供える「生身供(しょうじんく)」が行われ、江戸時代を通じて大切に祀られていたとされる。
明治の城解体に際して現在の墓所(上杉家廟所)へ移されたが、今もなお甲冑姿の謙信が漆で固められた甕の中に眠っていると伝えられ、不世出の名将として崇敬を集め続けている。
※上杉謙信は神のように敬われましたが、厳密な即身仏とは異なる独自の形で語り継がれています。
情報︰庄内観光サイト・Wikipedia
写真:山形県山形市 山寺(立石寺)

3回にわたって、土中入定、即身仏になられた方をご紹介しました。
「弥勒菩薩が世に現れるまで」「人々を救うため」自らの命を投げ打つ姿は、胸を打ちます。
人々の苦しみを除こうと身を捧げられた姿は、まさに「救世主」そのものと言えるのではないでしょうか。
そのスピリットは、形を変えながら、今も私たちに受け継がれているはずです。
前回も書きましたが、入定された方は、もっといらっしゃると思います。
私の生まれた場所でも、土中入定の言い伝えがあって、その方は記録に残っていないからです。
少し変わった言い伝えで、この話はごく限られた人しか知りません。
内容は書かない方がいいと思うので、ここからの話は特定の人しか理解できません。
土中入定の一番最初、青森の方の話です。
業病を患っていて、見た目が醜い行人です。
誰もたった一晩すら泊めてくれる人はいませんでした。
それなのに
「われ生仏となって長くこの村を守ろう」と言って、土の中に入っていったんです。
私たちの地域の土中入定したお坊さんが残した言葉を思い出してほしいです。
私が今、こんな状況になっているのは、このお坊さんの影響があるのではないでしょうか。
