即身仏と土中入定 その1


こんにちは。


今回は、土中入定や即身仏に関する記録や伝承をご紹介します。


行人や僧が生きたまま土の中に入り、死んでいくという土中入定の伝説は、日本各地に存在します。


即身仏は、誰かの苦しみを取り除きたいという切実な願いから生まれました。


​今回は、自らを犠牲にしてまで人々の幸福を願った彼らが、どのような人物であったのか、その静かなる決意の記録を紐解いていきたいと思います。



主な参考資料は、書籍『日本のミイラ信仰』(内藤正敏 著)とWikipediaです。AIには情報の確認や文章構成、表現のアドバイスを受けました。


それでは、各地で伝わる土中入定からです💁



🧘土中入定



村の拒絶を慈悲に変えた行人

【青森県】

上北郡天間林村に、業病を患う醜い行人がやって来て、一夜の宿を乞うたが誰も泊める者がなかった。


行人は「われ生仏となって長くこの村を守ろう」と言って土の中に入って死んでいった。

(森山泰太郎『陸奥の伝説』)



大地と一つになりし最後の説法

【宗海上人・山形県】

山形県東田川郡立川町狩川で、宗海上人が身体を土に埋め、首だけ出して入定した。

(三崎一夫『陸前の伝説』)



広瀬川に響く、命の鉦(かね)

【宮城県】

仙台市五ッ谷で、広瀬川の水禍から人々を救うため、行人が人柱となり土中に埋まって鉦(かね)を叩いて死んでいった。

(三崎一夫『陸前の伝説』)



聖域に刻まれた修行の地

【千葉県】

千葉県安房地方には8か所の入定所が報告されているが、地上の石室や岩窟での入定も含まれており、土中入定と伝えられるものはこのうち2か所である。 



発掘で裏付けられた史実

【長信上人・東京都】

東京都稲城市の平尾入定塚は、発掘によって天文5年(1536年)に長信上人が入定した場所であったことが確認された。 



凶作を食い止める

「五穀豊穣」の身代わり

【山梨県】

山梨県北巨摩郡高根町西割に、天保7年(1836年)一人の托鉢僧が来て「凶作が来ないように観音様に願ってお経をあげたいから、この穴に埋めてくれ」と言い、土の中に入って読経し鉦を叩いて死んでいった。

(土橋里木『甲斐の伝説』)



持病の苦しみを救いに変えた

共感の仏

【生身入穴居士・長野県】

長野県北佐久郡五郎兵衛新田村上原に、他国から流れてきた本了という喘息持ちの六部(巡礼僧)が住んでいた。

喘息に悩む人たちを救いたいと言って、自ら生身入穴居士(しょうしんにゅうけつこじ)と名付けて土の中に入り、読経しながら死んでいった。

(北佐久教育会『北佐久郡口碑伝説集』)



親しみと畏敬が混ざる

「歯痛の神様」

【しょうりんさん・兵庫県】

兵庫県神崎郡神崎町に、しょうりんさんという僧が、「村人が歯痛を起こしたときに治してあげよう」と言い残し、白装束で棺の中に入り生き埋めとなって念仏を唱えて息をひきとった。(玉岡松一郎『播磨の伝説』)



🧑‍💻地上で死去した後地下に埋葬した例や、地上で入定した後、地上の仏像内や堂内に納められた例など、土中入定と結びつかないものも多く、


そのため、研究者の間では「土中入定」と「即身仏」は本来別の信仰として考えるべきである、と指摘されています。


​また、同時期には富士講や、西方を向いて身を投じる焼身(捨身)を行われた方もいました。


※富士講

江戸時代初期に始められた富士講という信仰があります。

共通の背景を持っているため 混同されることがあるが、全く別物です。


※焼身自殺

西方の極楽浄土を向いて、焼身自殺された方も多く存在しますが、今回は割愛させていただきます。



写真(先頭)︰青森県むつ市  霊場恐山



🧘即身仏


流転の運命を辿る

伝説の行方不明即身仏


💠【大阿闍梨金剛院祐観

                                ・宮城県】


【名称】 大阿闍梨金剛院祐観

          (だいあじゃりこんごういん ゆうかん)

【場所】 萬蔵稲荷神社

              (宮城県白石市)

【経歴と修行】

 1767年(明和4年)、陸奥国白石(現在の宮城県白石市)に生まれる。


​羽黒山で厳しい修行を積み、「大阿闍梨金剛院祐観」という立派な僧名を授かる。


​【入定の様子】

1847年(弘化4年)、81歳のときに「死後は即身仏になる」と言い残し、この世を去る。

​

​死から4年後の1851年(嘉永4年)、息子の祐淳(ゆうじゅん)が遺言通りに墓を掘り起こしたところ、萬蔵さまの体は腐敗することなく、見事な即身仏になっていた。


​【特徴】

✤衝撃の行方不明事件

萬蔵さまの即身仏は子孫が代々「萬蔵稲荷神社」の宮司として大切に祀っていた。


​しかし大正10年(1921年)ごろ、「博覧会に出品する」という名目で持ち出されたまま、行方がわからなくなってしまった。


​【現在の信仰】

​即身仏そのものは失われてしまったが、萬蔵稲荷神社では今も変わらず萬蔵さまへの信仰が続いており、現在も「御霊祭り(みたままつり)」という行事が大切に受け継がれている。




疫病から村を救った

慈悲深き薬師如来の化身


💠【宥貞法印・福島県】


【名称】 弘智法印 宥貞

                (こうちほういん ゆうてい)

【場所】 貫秀寺(かんしゅうじ)薬師堂

              (福島県石川郡浅川町小貫)

​【経歴と修行】

1591年(天正19年)出雲の国松江に生まれる。


​23歳で出家後、諸国を巡り、高野山や江戸の永代寺などで真言密教を深く学んだ。

その後、磐城国(福島県いわき市)の赤井岳常福寺などを経て、晩年に浅川町の小貫東永山観音寺の住職となった。


​【入定の様子】


​「我、今より薬師如来と一体となりて入定せん。我が身をこの地に留め、永く衆生の病苦を除き、村の安全を守らん。」


当時、村で流行していた疫病(伝染病)に苦しむ人々を救うため、「薬師如来」と一体となって病魔を退散させることを決意した。これを「薬師入定」と呼ぶ。

天和3年(1683年)、92歳という高齢で入定。


生きたまま石棺に入り、薬師如来の名号を唱えながら絶命した。石棺の蓋を閉じた後も、中から読経や鉦(かね)の音が数日間聞こえていたと伝えられている。


​【特徴】

明治時代の火災で本来の寺(観音寺)は焼失したが、即身仏は守り抜かれ、現在の貫秀寺に移された。


【現在の信仰】

​現在、福島県内で拝観できる唯一の即身仏である。

​彼の遺骸は、薬師如来像の台座(石棺)の中に納められていた。このように特定の仏(薬師如来)の化身として入定する例は全国的にも珍しい。

​宥貞法印は、90歳を超えてなお他者のために命を捧げた「衆生救済」の象徴として、現在も地元で「弘智(こうち)さま」と親しまれ、篤い信仰を集めている。





猛火を跳ね除けた関東最古級の

『奇跡の即身仏』


💠【舜義上人・茨城県】

【名称】 舜義上人

                (しゅんぎしょうにん)

【場所】 妙法寺

               (茨城県桜川市 本郷)

               

​【経歴と修行】

相模国三浦郡の出身で、69歳の時に鎌倉の宝戒寺から妙法寺に来られ、


1686(貞享じょうきょう3)年2月15日、「衆生済度」のため78歳で入滅された。


 入滅後、阿弥陀如来の石仏の胎内に納められ、阿弥陀堂に祀られていたが、ときの住職の夢枕に立ち「我再び世に出て衆生を救わん」と告げた。


そこで棺を開けてみたところミイラ化していた。入滅から78年後のことである。


上人は入滅時に「五辛を絶ち、南無と唱うれば頭痛を治さん」と遺言したといい、頭痛にご利益があるとされる。




命を懸けて雨を願った行人



💠【日敬上人・千葉県】


【名称】 日敬上人

【場所】 日運寺(にちうんじ)

              (千葉県南房総市加茂)


【雨乞いの伝承】

日運寺には、旱魃に苦しむ村人を救った日敬上人の雨乞い伝承が残されている。


明和8年(1771年)、異常な日照りが続いた際、日敬上人は村人の窮状を救うため、堀切堰に粗朶を積み重ねて法座を設けた。


そして、


「三日三夜にして雨が降らないときには法座に火を放ち、吾が身を焼いてください」


と宣言し、読経と断食苦行を行ったと伝えられている。

満願の三日目、黒雲が現れ、雷鳴とともに雨が降り始めたという。


この伝承は現在も「堀切堰の請雨塔」の由来として伝えられている。




命を賭して雨を呼んだ

        房総の救世主


💠【日鑑上人・千葉県】


【名称】 日鑑上人

【場所】 日運寺(にちうんじ)

              (千葉県南房総市)


【入定の伝承】

旱魃で苦しむ村人を救うために雨乞いを行ったという伝承が残されている。


伝承によれば、日鑑上人は丘の上に坐して祈り、二日目に雨が降り始めたという。


その後も木食行を続け、死後には肉身仏になったと伝えられている。


​【特徴】

​伝承では即身仏となったとされるが、現在その遺体は現存していない。

日運寺は現在「房総のあじさい寺」として親しまれている。


「日鑑上人入定窟」が伝えられており、南房総市の指定史跡となっている。




石棺の中で永遠の眠りについた

孤高の念仏聖


弾誓上人は一人の僧侶ですが、京都と神奈川の両方に重要な足跡があります。


💠【弾誓上人】


① 京都府――弾誓上人の最期と現在の御遺骸


【名称】弾誓上人(たんぜいしょうにん)

【場所】古知谷阿弥陀寺

    京都府京都市左京区大原古知谷町


【経歴】

弾誓上人は尾張国(現在の愛知県)に生まれ、9歳で出家したと伝えられています。


その後、諸国を巡りながら厳しい修行を重ね、念仏三昧の修行に励みました。


佐渡の檀持山、信濃国の唐沢山、相模国の塔ノ峰など各地で修行した後、慶長14年(1609年)、京都・古知谷に阿弥陀寺を建立しました。


古知谷阿弥陀寺は、弾誓上人が開いた念仏道場であり、現在も弾誓上人ゆかりの寺院として知られています。


【入定】

慶長18年(1613年)、弾誓上人は62歳でこの世を去りました。


寺伝では、上人の遺骸は石棺に納められ、本堂奥の「開山窟」に安置されています。


現在も古知谷阿弥陀寺には、弾誓上人の遺骸と、自ら刻んだと伝えられる「植髪の像」が大切に祀られています。


古知谷阿弥陀寺は、弾誓上人の生涯の終着点ともいえる場所です。



② 神奈川県――修行と布教の地


💠【弾誓上人】


【名称】弾誓上人

【場所】大弘山光明院法國寺

    神奈川県横浜市緑区鴨居


【神奈川での修行】


弾誓上人は諸国を巡る中で、相模国にも滞在しました。


箱根の塔ノ沢に阿弥陀寺を創建したほか、相模国の塔ノ峰などで独座念仏の修行を行ったと、法國寺の寺伝に伝えられています。


また、現在の横浜市緑区鴨居周辺でも洞窟に籠もって念仏修行を行い、この地で人々に念仏を説いたとされています。


その後、慶長14年(1609年)には京都・古知谷へ移り、阿弥陀寺を建立しました。


現在の法國寺は、弾誓上人ゆかりの寺院として、上人の信仰と修行の歴史を伝えています。


【神奈川と弾誓上人】


神奈川県は、弾誓上人が修行を行い、念仏を広めた重要な土地です。


ただし、上人が最後に入定し、その遺骸が現在も祀られている場所は、神奈川県ではなく京都府の古知谷阿弥陀寺です。



写真︰神奈川県相模原市   相模湖



土中入定や即身仏は、将来『弥勒菩薩』が現れるその時まで、衆生(人々)を救い続けることを目的とされています。



入定された方は、「喘息で苦しむ人を救いたい」「歯痛を治してあげたい」「干ばつから救ってあげたい」など、身近な方々のために行った人もいました。


「苦しむ人を助けてあげたい」という 一念からです。


すごいです。


この方々の祈りが、今の日本の根底を支えているように感じます。



現代の日本では、このような行為は法律上認められず、関与した者は状況に応じて自殺ほう助罪や死体遺棄などの法的問題に問われる可能性があります。



即身仏は、肉体としては亡くなられていても、信仰の上では今なお人々を救い続ける存在として温かく見守られています。



※記事の一部に誤りがあったため、内容を確認・修正しました。