石川は何度でも生まれ変わる


こんにちは。


今日は、太子の子ども(向かって左)です。

山背大兄王(やましろのおおえのおう)と言われています。


先ず、一般的に言われている子ども達です👶


山背大兄王、財王、日置王、白髪部王、長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、片岡女王、手島女王、舂米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王、佐倉王


たくさんいますね😳



それでは、今日は子どもバージョン🧒

関さんの本とWikipedia を参考に書いていきます✏️



🫅山背大兄王

父親 厩戸皇子 

母親 蘇我刀自古郎女


山背大兄王は、皇位継承を望まれなかった。


理由は

・若く未熟

・人望がなかった

・母親が蘇我家の出という卑しい出自

・反蘇我氏勢力との対立を避ける為


皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)

ついに蘇我入鹿は巨勢、土師、大伴、および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。



山背大兄王は斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡。



11月11日(12月30日)

山背大兄王は生駒山を下り、斑鳩寺に入り、山背大兄王と妃妾など一族もろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。



蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。 


山背大兄王の襲撃には、軽王(のちの孝徳天皇)など多数の皇族が加わっていたと言われている。



ですが、巷ではこんな話があったそうです。


聖徳太子と山背大兄王は実は親子ではない!


どういうことでしょう🙄



🫅古人大兄皇子

(ふるひとのおおえのみこ)

父親  舒明天皇

母親  蘇我法提郎女


645年6月 乙巳の変 

古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が鞍作(入鹿)を殺した。私は心が痛い」と言った。


入鹿の父の蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺。


蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った。

その後、 出家して吉野へ隠退。

代わりに皇位には軽皇子(孝徳天皇)が就いた。 


しかし、同年9月12日 吉備笠垂から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、中大兄皇子に攻め殺させたとされる。

(仲間からチクられて殺される😭)



🫅有間皇子

父親 孝徳天皇 

母親 阿倍内小足媛


有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方であると告げた。


皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。


ところが、蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。

(仲間のチクリがあります💧)


中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたといわれる。


658年11月11日に藤白坂で絞首刑に処せられた。享年19。




🫅蘇我倉山田石川 麻呂

 父親:蘇我倉麻呂


中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿の誅殺を謀った際(乙巳の変)、共に計画に賛同した。


入鹿の暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。


しかし、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。



不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。



入鹿暗殺後、古人大兄皇子が述べた「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」の韓人とは、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。



大化5年(649年)3月に、異母弟の日向に石川麻呂が謀反の疑いありと讒言(ざんげん)を受ける。

(また仲間のチクリが…😫💦)



中大兄皇子は石川麻呂のもとに派遣して事の虚実を問わせた。


石川麻呂は使者に対して、「直接孝徳に陳弁したい」と答えたところ、孝徳により派遣された蘇我日向と穂積咋が兵を率いて山田寺を包囲した。


石川麻呂は妻子8人と共に山田寺で自害した。




🧑‍💻四人の人物をあげてみました✏️


仲間の裏切りが多かったです。


ここに入鹿が入って、全員同一人物だと考えています。


🫅山背大兄王

🫅古人大兄皇子

🫅有間皇子

🫅蘇我倉山田石川麻呂

🫅入鹿



自分では自信があるのですが、この時代に詳しい人から見たら、笑いを通り越して呆れるかもしれませんね…



🫅入鹿

父:蘇我蝦夷


中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変(645年7月10日)により、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。



超重要な事件「乙巳の変」で殺されたとされています。


ですが、殺されたのは蝦夷だと思います🐬🦐





🕊️石川は永久不滅



蘇我倉山田石川 麻呂のお話を、もう少し書きます✏️


乙巳の変が起こり、次々に蘇我派が殺されていきます。


アジアの中心となるべく構想され、難波で花を開かせようとしていた理想国家は、太子の暗殺によりもろくも崩れ去りました。


山田寺に追い詰められた石川麻呂は、僧や 子供たちにこのように告げます。



「お前は命が惜しいか?


もともと この寺は自分のために作ったものではなく、天皇のために作ったものだ。


私は世の末まで 我が君を恨むつもりはない」



この後、本人自ら首をくくり、後追って妻子8人、従者たちの多くが首を吊りました。



翌日の夕方、木臣麻呂、日向らが寺を取り囲み、すでに亡くなっている 石川麻呂の首を切りました。



太刀を抜き、屍を差し上げ、雄叫びを上げました。




🕊️白い藤の花


蘇我倉山田石川麻呂、妻、子どもが亡くなった後、


残されたブレーン たちも追い詰められ、亡くなりました。


山田寺には、大きな 藤の木があり、4月下旬から5月の数日まで、毎年 白い花を咲かせています。